


history経歴:前半
1990年9月6日、札幌で生まれました。
父は俳優の金田一仁志。ローカルの方なら、「ここは仙人の露天風呂じゃぁ〜」という温泉のCMを覚えている方もいるかもしれません。その仙人役が父でした。ドラマで大杉漣さんに首を絞められていたこともあります。そんな父です。
父がそんな仕事をしていたこともあり、8歳からミュージカルに出演していました。結果として17年ほど舞台に立ち続けることになります。
歌って踊って演技してました。今の見た目からは想像できないですよね。
昔は今よりは痩せていました。信じられないかもしれないが、本当なんだ。信じて欲しい。
その前提で、これからの話を読んで欲しい。
そんな仙人の息子として生を受けて、2025年で35年目になります。今ではデザイナーをしています。
人生には様々な出会いがありますね。
ここからは専門学校の卒業以降の経歴を書いていこうかなと思っています。
2011年 金田一、専門学校を卒業する。
札幌市にある経専音楽放送芸術専門学校を卒業しました。
学んでいたのはイベントの企画や運営など。イベントのチラシやチケットを作るDTPの授業が本当に楽しくて、ずっとデザインソフトを触っていました。
講師から「うちの事務所に来ないか」とお誘いいただくほど没頭していました。
2012年 金田一、オンラインショップのWEB担当になる
卒業後しばらくは、フリーターとして過ごしていました。独学でWEBの勉強を始めてみましたが、これがなかなか難しい。
どこから始めればいいのか、現場はどんな作り方をするのがスタンダードなのかわからない。
「このままではいけない」と思い、職業訓練校でHTMLやCSSを学びました。
そして就職したのがアパレル系の会社。オンラインショップのWEB担当として楽天やYahoo、BUYMAなど、様々なECモールの管理を行っていました。
専門学校で習得したIllustratorやPhotoshopの知識をフル活用して、お店のセールページや特設ページのデザインから構築まで担当していました。
ちなみに職業訓練校に通いながら、ダンスのインストラクターもしていました。
いや嘘じゃないんだ本当なんだ。信じてくれ。
2013年 金田一、メルマガ制作ディレクターになる
就職したオンラインショップが、思いがけず倒産してしまいました。
経営状態が悪いという雰囲気は感じられなかったのですが、22歳の私には見抜くことができませんでした。
「働かなければ生きていけない」という切実な思いで、オンラインショップでの経験とデザインソフトのスキルをアピールし、大手WEB制作会社にコーダーとして就職。
ところが研修終了後、思いがけず「Y」から始まる大手ショッピングモールのメルマガ制作ディレクターに抜擢されました。コーダーじゃないの?
環境の変化に戸惑いながらも、忙しくても充実した日々を送っていました。
ディレクターの仕事は、配信されるメルマガのスケジュール管理と、それに沿ったHTMLメールの作成が主な業務。
HTMLメールに掲載する画像制作は比較的シンプルでしたが、その数が膨大でした。
さすが大手ショッピングモール、1日に作成する画像の量は想像を超えるものでした。
「どう進めれば効率的に終わる?」「残業は絶対に避けたい」。
その思いが私の手の動きを、マウス操作を、ショートカットキーを加速させていきました。作業スピードは日に日に向上、そして光の速さを超えます。
幸いにも「効率化を考えるのが趣味」×「作業が早い」×「忙しいのが好き」という、いわゆる”社畜向き”のスキルセットを持っていたため、永遠に仕事を続けられるタイプでした。
しかし、1人が早くなっても意味がないのです。それほどまでに作業量が多かったのです。
でも、さすが大手ショッピングモール。
そこで導き出した結論が、効率化のためのツール構築でした。
当時の部下にプログラミングの知識を持つ女性がいたので、相談しながら
・ボタンを押せばHTML用のコードが出力されるシステム
・メルマガで使用するとエラーになる文字列を自動でハイライトするシステム
・大文字、小文字、半角、全角を一発で統一できるシステム
など、次々と構築しました。
今考えれば比較的シンプルなシステムばかりでしたが、メルマガ制作に特化したツールは当時の現場では画期的でした。
そうしたツールの構築により、最終的には8人で回していた仕事を3人で処理できるようになりました。
現場に特化したシステムの威力を実感しました。最近、後輩に聞いたところ、10年経った今でも現役で使用されているそうです。ありがてえ。
2016年 金田一、ベンチャー企業にジョインする。
効率化を進めて少人数での運営が可能になってから、メルマガ制作の部署は新人教育の部署となりました。
HTMLもデザインソフトも使用するため、まさに適任だったのでしょう。
ただ、私としては物足りなさを感じ始めていました。
効率化した結果、同じ作業の繰り返しになってしまったのです。
そんな時、高校の同級生から「映像会社立ち上げるんだけど、手伝ってもらえない?」という連絡が。
ルーチンワークに物足りなさを感じ始めていた私には、魅力的なお誘いでした。
そうして転職が決まり、友人が立ち上げた映像会社「D-creation」にジョインすることになります。THEベンチャー。
当時のメンバーは
代表であり映像クリエイターの「大地」
海外での撮影経験を持つカメラマン「太一」
そして「金田一」
大地、太一、金田一という、思わず声に出したくなるリズミカルな3人組で仕事をしていました。
大地は人との繋がりを大切にする人で、サントリーの営業担当者と親しくなり、映像案件や特設ページの案件を次々と獲得する営業の達人でした。すげえ。
ただ、友人との仕事には難しさもありました。
距離が近すぎると衝突も起きやすいっていうじゃない。難しいね。
友達としてはすごい好きなんだけど。
2017年 金田一、デザイン事業部を立ち上げる & 講師になる。
中学の同級生が店長のお店にたまにご飯に行ってたんですが、そこの社長から
「デザイン事業部立ち上げるから、そこを任せられないか」という熱烈オファーをいただきました。
人生には3回のモテ期が来ると言いますが、金田一のモテ期はビジネス寄りだったようです。
狸小路商店街にあるアメリカ料理店「AmericanVillage」とアジアン料理店「AsianVillage」を支えるデザイン事業部として「FreelyVillage」が誕生。その事業部長として就任することになりました。
飲食店のホームページやメニュー表の作成、原価計算、新メニューの考案、ホットペッパーのアクセス解析など、多岐にわたる経験をさせていただきました。
社長は金田一の1つ上で、年齢もほぼ同じでしたが、人望も熱意も備えた素晴らしい人でした。すげえ。
ここで少し話は変わるんだけど、経歴の最初の方で「うちの事務所に来ないか」って声をかけてくださった講師いたのおぼえてますか。
その先生とは時々連絡を取り合っていたのですが、ある日突然お食事にお誘いいただきました。どんなお話かと思っていたら「専門学校の講師を引き継いでほしい」という内容でした。
これまでデザインのスキルがあったからこそ、様々な経験ができました。私にとって恩師も恩師。とても嬉しく、即座にお引き受けしました。
そんなこんなで母校での講師としての道も始まりました。
2018年 金田一、大きな変化の年になる。
FreelyVillageでの業務も講師の仕事も、慣れない環境でしたが楽しく取り組んでいました。
そして2018年9月6日。何の日か覚えてますか?そうです、金田一の誕生日です。
しかし、この年は特別な日となりました。
2018年9月6日3時7分、北海道胆振東部地震が発生したのです。
札幌も大きく揺れ、停電が発生し、緊急速報が鳴り響きました。
当初、停電した際は彼女と一緒にいたため「あれ?もしかしてサプライズ?」と思ってしまいました。
違う、そうじゃない。不謹慎です。
当時の日本は、このような不謹慎な発言を良しとしない雰囲気がありました。思い出してください。そう、「自粛ムード」です。
世間では北海道全体が被災地という認識が広がりました。
しかし、その多くは誤った認識でした。
確かに停電により2~3日は全道的に困難な状況でしたが、多くの地域ではすぐに復旧した記憶があります。
ただ、自粛ムードの影響で観光客は大幅に減少しました。
迅速なプロモーション(北海道ふっこう割とかあったよね)のおかげで11月頃には観光客も戻ってきましたが、9月、10月の2ヶ月間で飲食店が受けたダメージは相当なものでした。
FreelyVillageは飲食店のサポートの他に外部からの仕事も受注していましたが、その量は多くありませんでした。
当時FreelyVillageには私ともう1人、メルマガ制作時代に一緒に働いていた関西出身の先輩がいました。
先輩も私もフリーランスとして独立するだけのスキルは身についているだろうという判断のもと、社長と相談してFreelyVillageの解散を決めました。
その先輩とは今でも時々連絡を取り合っています。恩返しをしたいと思いながらまだできていませんが、めちゃくちゃに優秀な方なので、またいつか一緒に仕事ができればと考えています。ほんとに。
後半に続く。